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2024年4月28日 (復活節第5主日)

説教 「木の枝として」

聖書 エゼキエル書 36:22~24 ヨハネ福音書 15:18~27

 

 復活節の後半は、キリストの昇天から聖霊降臨への道筋が、主イエスのよみがえりと共に与えられます。

約束された聖霊が、よみがえりの主と私たちをつなぎ、結んでくれます。

主とひとつであることが、使徒たちを宣教へと送り出し、迫害の世にあっても福音を伝えていきます。

そして、現代の私たちが、主イエス・キリストと共に歩めております。

 

 結ぶということについて、この時代の変化で浮かんでくることがあります。

コロナ禍になって、多くの教会が配信で礼拝を守れるようになりました。

礼拝に来れない人からは、大変ありがたいという声もありました。

スマホという小さな電子機器が、人と人を瞬時に結び、伝えてゆけるようになりました。

反面、人と人との関係がうまくいかないことも起こっています。

会社の上司と部下との関係に難しさもあれば、便利さにつけこんだ詐欺もあります。

つながっていると同時に、実は心は閉ざされているかもしれません。

まさに機械と心という相反するものが、つながりに欠かせない。

そんな時代なのかもしれません。

 

 ヨハネ福音書で、主は弟子たちにこのように言って宣教に送り出します。

人々はあなたがたも迫害するだろう。

まさに旧約の預言者のようです。

本日のエゼキエル書も小見出しのない一部分なので、全体が捉えにくいかもしれません。

散らされた苦しみの民も、周辺諸国の民も、私が神であることを、あなた方を通して知るようになる。

そして、それは主なる神、私自身が行うという内容の一部です。

 

 世に遣わされる弟子たちにより、主の福音が知らされる。

エゼキエル書によって、それがよみがえりの主イエスご自身の御業と感じられます。

 

 よみがえられた主が、天にあげられ、地にある弟子たちが遣わされてゆきます。

派遣という言葉は、出で立ち遣わされることです。

それは決別ではなく、むしろ強く結ばれていることが宣教への派遣・証となります。

礼拝が、まさに祝福と派遣です。

ここからまた一週間の日々が始まり、巡りくる主の日に主の前に集められます。

 

 聖霊の働きは、ひたすら弱い私たちを、主につながらせてくれています。

この世の荒波に沈みゆく私たちを、主が引き上げてくださいます。

私たちの罪をその身におってくださった十字架の前に、連れ戻してくれます。

 

 今日のヨハネ福音書の前に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」があります。

子どもの時からなじみのあるみ教えです。

それが、今日は十字架の主の御声として聞こえてきます。

そして、こんな小さな枝一本のために、主は命を捧げられたことを思います。

またよみがえりの主から御声が聞こえてきます。

あなたがたは私の枝であり、この世にあって、主から実を結ぶようにと。

 

 ただ主イエスの救いによって、罪あがなわれた枝として、今日ある。

この主イエスによる恵みを、聖霊は教えてくれます。

枝の命は、その木につながってこそです。

それを復活節の礼拝で聞き、共に歩んでまいりましょう   

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志